李朝後継者の不審な死

日本と朝鮮の因縁の歴史

                                                 土佐保子

高宗が突然薨去


方子と李垠殿下の挙式
1919年(大正8年)1月25日と正式に決定した。
その4日前に
李垠の父、高宗が突然薨去します。

脳溢血か、毒殺か
その日、韓国は大寒の寒さに襲われていた。

高宗はいつものように、女官たちと四方山話に興じていた。
愛飲していた茶を、一息に飲み干したあと、
床に入り1時間ほど経った頃、急に食べ物を吐き出た。

脇部屋で眠りかけていた侍女たちがあわてて駆けつけ、
典医を呼んだがその時すでに心臓の鼓動が止まっていた。

日本側は脳溢血と記録し、韓国側は毒殺と信じている。

第二のハーグ密使事件
うわさによれば、

高宗はパリで開かれる平和会議に、
第二のハーグ密使事件のようなものを考えていたとのこと。
これを阻止するため日本が毒殺を計ったとも言われている。


李王家で事務官の弁

私の手元に「李王宮秘史」なる本がある。
李王家で事務官をしていた、権藤四郎介が書いた本である。

夜中の二時ごろ、電話がなり
「太王殿下御重態に陥られた、即時出仕せよ」とのことであった。

権藤はおもわず「純宗皇帝(ハーグ密使事件で高宗は
責任を取らされ垠の兄、純宗が皇帝についていた)か?」
と聞きなおす。

それというのも、高宗は健康であり、
ひきかえ純宗は青年時にアヘン入りコーヒーを飲んだため病弱であった。

権藤は宮廷へと急ぐ。
そこには典医が手のほどこしようもなく高宗の枕頭にたたずんでした。
高宗の死は今もって謎のままです。

晋殿下の突然死

李垠、方子の結婚は延期される。
方子が李垠と結婚して2年が経ち、王子、晋が生まれていた。
突然、晋殿下の死

朝鮮側の
「ぜひ、晋殿下もご一緒に、こちらで結婚披露宴をするように」
との強い要望に断ることが出来ず生後8ヶ月の晋を連れて帰鮮する。

急変した若宮様
二週間にわたる数々の行事も終わり、
明日帰国というとき、
方子と李垠夫妻は、滞在先の石造殿へ向かっていた。

車は石造殿へ到着、
その車が停車する前に車に体当たりしながら
「若宮様の御容態が」と職員が半狂乱になって叫んでいる。

方子と李垠夫妻は、晋のもとへかけつける、それまで機嫌がよく、
なにごともなかった晋が息づかいも苦しげに吐きつづけていた。



急性消化不良か
毒殺か


「急性消化不良」と診断された。

方子は
「こうも突然に、こうも悪性にやってくるものでしょうか。
しかも京城(現在のソウル)を立つ前夜になって。
万一の場合に備え万全の警戒をしていたのに、
最後に緩んだのを待っているかのように」


方子の母、梨本宮伊都子は
「毒殺以外考えられませんでした」
と著書に書いている。

謎の晋の死
晋の死因については、さまざまな憶測がある。

「高宗の仕返し」説、
「閔甲完側の怨恨」説、
そして
「李王家の血筋を絶やすため日本側が画策した」説


晋の死も今もって謎のままである。